銀幕の愉楽

劇場で観た映画のことを中心に、適当に無責任に書いています。

【映画】ファーザー

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映画日誌’21-19:ファーザー
 

introduction:

日本を含め世界30カ国以上で上演された舞台「Le Pere 父」を映像化した人間ドラマ。名優アンソニー・ホプキンスが老いによって記憶を失っていく父親を演じ、『羊たちの沈黙』以来2度目のアカデミー主演男優賞に輝いた。原案の戯曲を手掛けたフロリアン・ゼレールが監督を務め、『危険な関係』の脚本家クリストファー・ハンプトンとともに共同脚本を手掛けた。『女王陛下のお気に入り』でアカデミー賞を受賞したオリヴィア・コールマン、『SHERLOCK/シャーロック 忌まわしき花嫁』などのマーク・ゲイティスや、『ビバリウム』などのイモージェン・プーツらが共演する。第93回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、助演女優賞など計6部門にノミネートされ、主演男優賞のほか脚色賞を受賞した。(2019年 イギリス,フランス)
 

story:

ロンドンで独り暮らしをしている81歳のアンソニーは、認知症により少しずつ記憶が曖昧になってきていたが、娘のアンが手配した介護人を拒否してしまう。そんな折、アンから新しい恋人とパリで暮らすことを告げられショックを受ける。しかしアンソニーの自宅には、アンと結婚して10年以上になると語る見知らぬ男が現れ、ここは自分とアンの家だと主張する。そしてもう一人の最愛の娘、ルーシーの姿が見当たらない。混乱を深めていくアンソニーだったが、ある真実にたどり着く。
 

review:

2021年のアカデミー賞は、先日逝去したチャドウィック・ボーズマンの受賞が有力視されていた主演男優賞の発表が最後に回され、ボーズマン追悼のムードが高まるなか、アンソニー・ホプキンスの名前が読み上げられるという番狂わせが起き騒然となった。しかも当の本人は会場にもオンライン上にも姿を見せておらず、受賞者のスピーチ無しという尻すぼみな幕切れ。映画芸術科学アカデミー、何でそんな余計な演出したんや。何となくアンソニーが気の毒になってしまうが、何はともあれ名優アンソニー・ホプキンスに史上最高齢で主演男優賞を獲らせた作品である。
 
一言で言うと、すごい映画だった。認知症になっていく父と娘の家族ドラマだと思ったら大間違い。涙が止まらないという謳い文句は適当じゃない。認知症本人の視点で描く画期的表現によって、観客に認知症を擬似体感させるサスペンスホラーであり、その現実を目の当たりにした私たちは茫然自失となり、涙など出ないのである。劇場に行く前に何となくそういう映画であることは認識していたけれど、想像以上の衝撃だった。ロリアン・ゼレールは本作が長編映画監督​デビュー作とのことだが、その手腕に脱帽する。
 
81歳のアンソニー、長女のアン、アンの夫と名乗る男、新しい介護士、アンになりすます見知らぬ女、突然現れた謎の男。この登場人物たちが、アンソニーが自分のフラットだと思っている家のなかに現れては消え、同じ会話を何度も繰り返す。同じ線上にあるはずの時間軸と記憶が断片化してつぎはぎになり、どんどん辻褄が合わなくなっていく。今がいつで、どこにいるのか、目の前の人間が誰なのか、何が真実で何が妄想なのかすら分からない。しかも物語が進行するにつれ少しずつ室内の様子や調度品が変化し、観ている私たちも空間と時間の感覚がおかしくなって混乱し、困惑する。
 
ともかくも脚本が秀逸で、伏線が張り巡らされた巧妙な物語に翻弄され続ける。観終わったあとに冒頭から見直したい衝動に駆られるが、もう一回観るのはしんどい。認知症患者本人の恐怖や不安を体験することも然りだが、長女アンの苦悩や葛藤、周囲の苛立ちや戸惑い、すべてにシンクロして激しく心を揺さぶられてしまうのだ。本作におけるアンソニーの仕事は本当に見事であったし、父親への愛憎のはざまで揺れ動くアンを体現したオリヴィア・コールマンの演技も本当に素晴らしかった。でも、もう一回観るのはしんどい。
 
ああ、祖母はこんな世界を見ていたのかと。20年前に他界した祖母のことを思い出し、もしあの時このことが分かっていればもっと寄り添えたのかもしれない、と詮無いことを考える。いまや5人に1人が認知症を発症する可能性があり、これが自分自身や身近な人に訪れるかもしれない未来なのだとしたら。いま、絶対に観るべき映画だと言っておきたい。
 

trailer: