銀幕の愉楽

劇場で観た映画のことを中心に、適当に無責任に書いています。

【映画】ナイトメア・アリー

映画日誌’22-14:ナイトメア・アリー
 

introduction:

シェイプ・オブ・ウォーター』でアカデミー賞の作品賞、監督賞など4部門に輝いたギレルモ・デル・トロ監督が、1946年に出版された名作ノワール小説「ナイトメア・アリー 悪夢小路」を原作に描くサスペンススリラー。『アメリカン・スナイパー』などで4度のアカデミー賞ノミネートを誇るブラッドリー・クーパーが主演し、2度のアカデミー賞受賞歴をもつケイト・ブランシェットトニ・コレットウィレム・デフォールーニー・マーラら、豪華な顔ぶれが共演する。第94回アカデミー賞では作品賞に加え撮影、美術、衣装デザインの計4部門にノミネートされた。(2021年 アメリカ)
 

story:

1939年。野心家の青年スタンは、人間か獣か正体不明な生き物を出し物にする怪しげなカーニバルの一座と巡り合い、マネージャーのクレムに声をかけられる。そこで読唇術の技を身につけた彼は、人を惹きつける才能と天性のカリスマ性を武器にトップの興行師へと昇り詰めていく。ショービジネスでの成功を夢見て独り立ちしたスタンだったが、ある日、精神科医を名乗る女性と出会ったことで運命が狂い始める。
 

review:

ギレルモ・デル・トロ監督との出会いは『パンズ・ラビリンス』で、奇妙な後味のダークファンタジーに衝撃を受けたものだ。その後もパシフィック・リム』や『シェイプ・オブ・ウォーター』などでモンスター描写を得意としてきたデル・トロだが、本作の特徴は彼の長編作品では初めて「人間ではないもの」が出てこない、という点だろう。「異形のもの」は出てくるが、それが「人間」であることがこの物語の恐怖であり、最大の悪夢である。
 
ブラッドリー・クーパー演じる青年スタンは、冒頭で何者かの遺体を家ごと焼き払ってその場を立ち去り、流れ着いたカーニバルに合流する。スタンは読心術師のジーナとそのパートナーのピートに取り入り、やがて読心トリックを身につけると恋仲になった娘モリーを連れて一座を飛び出してしまう。野心家の彼はショービジネスの世界で成功を収めるが、ある心理学者との出会いによって運命が狂い始めていく、という物語だ。
 
寂れた町に煌々と灯るテントの明かり、怪しげな見世物小屋、フリークスたち。見世物はすべてインチキ、スタンの読心術や降霊術にもトリックがあり、そこに神秘性はないはずなのにどこか幻想的である。いつモンスターが出てきてもおかしくないデル・トロ監督らしい不穏なムードを漂わせながら、第二次大戦開戦前のアメリカを現世的に映し出しているフィルム・ノワールだ。ウィレム・デフォー演じる支配人が「ナイトメア・アリー(悪夢小路)」で仕入れてくる「獣人」のおぞましき正体に戦慄させられる。
 
ネタバレするので詳細は書かないが、今にして思えばスタンの運命を暗示するものは最初からいくつも散りばめられていた。我々は、彼が定められた運命に向かって、自ら破滅していく末路を眺めていただけなのだ。自らの能力を過信した男が陥る、絶望の深さ。あまりにも皮肉な、あまりにも残酷な自らの運命を受け入れた彼の、狂気に満ちた笑顔を忘れることができない。まさに悪夢としか言いようがない、デル・トロ劇場であった・・・。
 

trailer:

【映画】ベルファスト

映画日誌’22-13:ベルファスト
 

introduction:

北アイルランド ベルファスト出身のケネス・ブラナーが、自身の幼少期を投影した自伝的作品。製作・監督・脚本を務める。9歳の少年バディの目線を通して、激動の時代に翻弄され様変わりしていく故郷ベルファストを映し出す。主演は本作が映画デビューとなる新星ジュード・ヒル。『007』シリーズなどの大女優ジュディ・デンチ、『裏切りのサーカス』などのキアラン・ハインズ、『フィフティ・シェイズ』シリーズなどのジェイミー・ドーナン、『フォードvsフェラーリ』などのカトリーナ・バルフら、英国とアイルランドの実力派俳優たちが集結した。第46回トロント国際映画祭にて最高賞にあたる観客賞に輝き、第94回アカデミー賞でも作品賞、監督賞ほか計7部門にノミネートされ、脚本賞を受賞した。(2021年 イギリス)
 

story:

北アイルランドベルファストで生まれ育った9歳の少年バディは、家族と友達に囲まれ、映画や音楽を楽しみ、充実した毎日を過ごしていた。たくさんの笑顔と愛に包まれる日常は彼にとって完璧な世界だったが、1969年8月15日、プロテスタント武装集団がカトリック住民を攻撃したことで、彼の穏やかな日常は一変してしまう。住民すべてが顔なじみで、ひとつの家族のようだったベルファストは、この日を境に分断されていく。暴力と隣り合わせの日々のなかで、バティと家族たちも故郷を離れるか否かの決断を迫られ...
 

review:

いやいやいやいや作品賞は『ベルファスト』だろ!!!!と世界の中心で叫びたい。俳優・監督・舞台演出家として活躍するケネス・ブラナーが、自身の幼少期の体験を投影して描いた自伝的作品は、類まれなる傑作であった。ブラナーの生まれ故郷である北アイルランドベルファストを舞台に、激動の時代に翻弄されながら笑顔で生き抜く家族の物語がモノクロの映像で描かれる。この作品を観るにあたっては、北アイルランドの歴史背景を認識しておいたほうがよい。
 
イギリスの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」だ。念のため言っておくがアイルランド北アイルランドは異なる。アイルランド島にはイギリスによる支配に抗ってきた長い長い歴史があり、イギリスからの独立派(カトリック)と共存派(プロテスタント)の対立の構図がある。イギリスはプロテスタントが主流だが、アイルランドカトリックの土地。16世紀、国の勢力を拡大する過程でイギリスは隣のアイルランド島への植民を推し進め、プロテスタントが土着のカトリックから土地を奪う構造が出来上がっていく。
 
そしてイギリスから渡ってきた人が多い北側の地域ではプロテスタントが多数派となり、1920年代にアイルランドが独立する際、イギリスに留まった北部の地域が「北アイルランド」である。3600人近い死者を出した「北アイルランド紛争」は、1960年代にアメリカの公民権運動に影響され、カトリックに対する差別撤廃を求める運動が盛り上がったことに端を発する。紛争は北アイルランド警察やイギリス軍が介入して泥沼化し、1998年のベルファスト合意が締結するまで30年に及んだ。それにより北アイルランドは正式にイギリス領となったのであるが、現在もイギリス帰属派とアイルランド統一独立派の対立の構図は残っており、暴動が起きている。
 
映画の冒頭、ヴァン・モリソンの歌声を背景に現在のベルファストが映し出される。一転、モノクロに切り替わって1969年のベルファスト、少年バディの姿とともに暴徒たちが登場する。ある日、平穏な日常が終わる。暴力に分断されていく小さな街で、昨日まで仲良く暮らしていた隣人といがみ合う。暴力と隣り合わせながら、それでも家族の日常には愛とユーモアが溢れている。大好きなおじいちゃんやおばあちゃん、優しい両親、気になる女の子。
 
あくまで9歳の少年バディの視線で描かれ、中心となるのは家族の会話劇であるが、とにかく脚本が秀逸だ。市井の人々の暮らしを切り取ったモノクロの映像が美しく、カメラワークも素晴らしい。バディを演じるジュード・ヒルの可愛らしさといい、いずれの俳優も良い仕事をしていたが、おばあちゃんを演じたジュディ・デンチの存在感が途轍もなかった。
 
ベルファスト』はとてもパーソナルな作品だ。私が愛した場所、愛した人たちの物語だ
 
と、ケネス・ブラナー監督は語る。私たちは彼の個人的な感傷、郷愁を通じて、世界を見る。それこそが、この作品の凄さだろう。今この時代、言いようのない喪失感を抱える私たちに向けられた切実なメッセージが胸に突き刺さる。いつまでも心の奥に大切にしまっておきたい、愛おしい映画であった。
 

trailer:

【映画】シラノ

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映画日誌’22-12:シラノ
 

introduction:

1897年の初演以降、世界中で上演され、映画化、ミュージカル化されている不朽の名作「シラノ・ド・ベルジュラック」を、『プライドと偏見』『つぐない』のジョー・ライト監督が再構築。主演は『スリー・ビルボード』やテレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』などのピーター・ディンクレイジ、『Swallow/スワロウ』などのヘイリー・ベネット、『WAVES/ウェイブス』などのケルヴィン・ハリソン・Jrらが共演する。(2021年 イギリス/アメリカ/カナダ)
 

story:

17世紀フランス。フランス軍隊きっての騎士シラノ・ド・ベルジュラックは、剣の腕前だけでなく、優れた詩を書く才能を持ち、仲間たちからも絶大なる信頼を置かれている。しかし自らの外見に自信がない彼は、想いを寄せるロクサーヌに気持ちを告げることができずにいた。そんなある日、シラノと同じ隊に配属された青年クリスチャンに惹かれたロクサーヌは、こともあろうに恋の仲立ちをシラノに依頼する。愛する人の願いを叶えたいシラノは、文才のないクリスチャンに代わってロクサーヌへのラブレターを書き続けるが...
 

review:

シラノ・ド・ベルジュラック」は世界中で最も愛されている舞台劇の一つである。19世紀末、ベルエポック時代のフランスで大成功を収めた純愛物語は、ブロードウェイで繰り返し上演され、ハリウッドで映画化もされている。日本国内でも劇団四季や宝塚が公演をおこない、幕末から明治にかけての日本を舞台にした「白野弁十郎」なる舞台もあったそうだ。演劇史に残る傑作を、新しい設定で再構築したのが本作である。
 
劇作家エドモン・ロスタンがこの舞台を生み出すまでのドタバタが描かれた『シラノ・ド・ベルジュラックに会いたい!(2018年)』を観ていた私は、わざわざ顛末を知ってる物語を観なくてもいいかという気持ちだったのだが、たまたま他に観たい作品がないという消極的な動機で鑑賞。しかも観たのは、3月の頭である。放置しすぎである。忙しくて一週間に一本書くのが限界だったりすると、映画を観るペースと書くペースがどんどん乖離していくので、印象に残ってない映画のことはどんどん忘れていく。
 
というわけで、脳を振り絞って思い出を書くと、クリスチャンは確かに色男だが、17世紀のフランスで貴族階級の白人が有色人種と恋するのは歴史的に見て現実的ではないのではないか、などと考え始めてしまって物語に没入できず。ホワイトウォッシュは批判されるべきだが、その逆はどうなの歴史を捻じ曲げてまで表現したらもはやファンタジーじゃないのいやまあそもそも創作だからな・・・。多様性に配慮した配役だと思うが、それは本当に必要だったんだろうか。
 
ロクサーヌ役のヘイリー・ベネットはジョー・ライト監督の奥さんらしいけど、独特のムードがあり、ロクサーヌの何にも考えてない空っぽで浅はかな感じが醸し出されていてなかなかよかった。って悪口やん。キーラ・ナイトレイだと無駄に感情移入しちゃうからちょうど良い。ジョー・ライト監督作品にしては小さくまとまってしまった印象で少々期待外れだったが、ただもうピーター・ディンクレイジはカッコいいよね、素晴らしい俳優である。彼をタイトルロールに抜擢したところは評価したい。
 

trailer:

【映画】ドリームプラン

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映画日誌’22-11:ドリームプラン
 

introduction:

世界最強のテニスプレイヤーと称されるビーナス&セリーナ・ウィリアムズ姉妹を世界チャンピオンに育てあげた実父リチャードの実話をもとに描いた伝記ドラマ。監督はレイナルド・マーカス・グリーン、『幸せのちから』などのウィル・スミスが主演・製作を務める。第94回アカデミー賞では作品賞、主演男優賞、助演女優賞ほか計6部門にノミネートされ、ウィル・スミスがオスカーを獲得した。(2021年 アメリカ)
 

story:

リチャード・ウィリアムズは、優勝したテニスプレイヤーが4万ドルの小切手を受け取る姿をテレビで見て、自分の子どもをテニスプレイヤーに育てることを決意する。テニスの経験がない彼は独学で指導法を研究し、78ページにも及ぶ計画書「ドリームプラン」を作成。ギャングがはびこるカリフォルニア州コンプトンの公営テニスコートで、周囲からの批判やさまざまな困難に立ち向かいながら、ビーナスとセレーナ姉妹を史上最強のテニス選手に育て上げていく。
 

review:

リチャード・ウィリアムズはかつての奴隷市場の街、ルイジアナ州シュリーブポートの出身である。白人至上主義KKKクー・クラックス・クラン)が根を張る人種差別が激しい地域で抑圧されながら育った彼は、白人社会への憎悪を募らせつつ、強烈な上昇志向を抱くようになる。2回目の結婚をした頃「エホバの証人」と出会い、厳しい家父長制、忍耐や勤勉、非暴力を敷くこの宗教に飛びつく。
 
貧困層の黒人が這い上がれない原因のひとつとしてコミュニケーションに暴力が介在してしまいがちな側面があると考え、品行方正かつ道徳的に生き、すばらしい功績を残せる子どもを育てる家庭を築こうとしていた彼にとって、都合のよい教義だったからだ。そして、一家は治安のよい豊かな湾岸都市カリフォルニアのロングビーチに暮らしていたが、リチャードは治安の悪いコンプトンに引っ越すことを突然決めてしまう。
 
「コンプトンに家族を連れて行ったのは、偉大なチャンピオンは“ゲットー”から生まれると信じていたから。モハメド・アリのようなスポーツの成功者やマルコムXのような偉大な思想家がどこから来たのか研究していたからね」「コンプトンほど荒れた場所はなかった。“ゲットー”は人間を激しくし、タフで強くしてくれる。だから俺は家族とコンプトンに行ったんだ」
 
それが本作に登場する、ギャング蔓延る治安の悪そうな街である。娘たちに反骨精神を埋め込むためわざわざ引っ越したってことを考えるとホントにヤバい奴だなって思し、間違いなく「毒親」の類である。リチャードのヤバさも描かれていたし、原題の ”King Richard”は「リチャード3世」になぞらえて揶揄したものだと思うが、ずいぶん美化して描いていると思われる。ヴィーナスとセリーナのサクセスストーリーのように見えて、要するに毒親の功罪を描いている。
 
結果、ビーナスとセレーナは、アフリカ系女子選手がほとんどいなかったテニス界に絶対王者として君臨し、人種差別や男女格差と闘いテニスの歴史を塗り替え、世界中の人々に影響を与える存在となった。文武両道を貫いた頭脳明晰な姉妹は数か国語を操り、現地の言葉で取材に応じる。クリエイティブな面を開拓していくことを母オラシーンに勧められてファッションスクールに入学し、デザイナーとしても才能を発揮している。
 
が、それは姉妹がたまたま成功しただけの生存者バイアスにすぎず、彼女たちがどこかで壊れてしまい挫折していたら、子どもを自己実現の道具にした毒親でしかない。とは言え、リチャードの毅然とした態度が姉妹を守った側面は否めない。ジュニア大会で子どもたちに強いプレッシャーをかける親、天才と持て囃された子どもが破滅していく現実に批判的だったリチャードは、子どもであるうちは子どもとして過ごさせようとする。
 
そして姉妹が何を背負って闘ってきたのか、マイノリティの代表として前人未到の道を切り開き、後に続く少女たちにどれほど勇気を与えたか、ということがきちんと描かれており、それは胸に迫るものがあった。ウィル・スミス平手打ち問題とリチャード毒親問題はおいといて、テンポのよいドラマチックな展開に引き込まれたし、映画としてよく出来ており楽しめた。でも、暴力はダメ絶対。
 

trailer:

【映画】ゴヤの名画と優しい泥棒

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映画日誌’22-10:ゴヤの名画と優しい泥棒
 

introduction:

ロンドンにある美術館ナショナル・ギャラリーで実際に起こった、ゴヤの名画「ウェリントン公爵」盗難事件の知られざる鵜真相を描いたコメディドラマ。『ノッティングヒルの恋人』のロジャー・ミッシェルが監督を務め、本作が長編劇映画の遺作となった。主演は『ムーラン・ルージュ』『アイリス』などの名優ジム・ブロードベント、『クィーン』などのヘレン・ミレン、『ダンケルク』などのフィオン・ホワイトヘッドのほかマシュー・グードらが出演する。(2020年 イギリス)
 

story:

1961年、世界屈指の美術館ロンドン・ナショナル・ギャラリーで、スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤの絵画「ウェリントン公爵」の盗難事件が起きる。犯人である60歳のタクシー運転手ケンプトン・バントンは、絵画を人質に政府に対して身代金を要求。小さなアパートで長年連れ添った妻、息子とともに年金暮らしをしている彼は、身代金で公共放送(BBC)の受信料を肩代わりし、テレビで孤独を紛らわせている高齢者たちの生活を楽にしようと企てるが...
 

review:

世界中から年間600万人以上が来訪・2300点以上の貴重なコレクションを揃える “世界屈指の美の殿堂” ロンドン・ナショナル・ギャラリーから、フランシスコ・デ・ゴヤの名画「ウェリントン公爵」が盗まれた。1961年に実際に起きたこの事件の犯人は、名もなき60歳のタクシー運転手ケンプトン・バントン。
 
おしゃべりで皮肉屋の偏屈なおじさんだが、社会的弱者によりそう正義の人である。貧困によって社会から切り離された高齢者の孤独を救うのはテレビであると考えたケンプトンは、公営放送(BBC)の受信料無料化を訴える活動をしていた。事実、彼はBBCの受信料支払いを拒み、2度刑務所に入れられている。
 
ある日、イギリス政府とロンドン・ナショナル・ギャラリーが14万ポンド(約2170万円)で落札した『ウェリントン公爵』の肖像画が、ロンドン・ナショナル・ギャラリーで展示されるというニュースを見たケンプトン、怒り心頭。と言う訳で盗んだ「ウェリントン公爵」を盾に政府をゆすり、イギリス中を巻き込んだ大騒動となったのである。
 
しかし、この大事件の裏には、もう1つの隠された真相があった——というのが、この作品の肝である。国を揺るがした大事件の裏にある、家族愛の物語であった。ケンプトンには長年連れ添った妻ドロシーがおり、彼女は夢想家の夫を静かに見守る現実主義者である。名優ジム・ブロードベントヘレン・ミレンがバントン夫妻をチャーミングに演じ、ユーモアあふれる軽妙な夫婦の会話劇が楽しめるが、実際の夫妻のキャラクターに近いらしい。
 
「ケンプトンは永遠の楽観主義者であり、活動家だった」と監督は説明する。人と人とのつながりが希薄になっていく現代において、社会をよくするために立ち上がるケンプトンの勇姿が心に刺さる。娘の事故死から立ち直れずにいた妻ドロシーが、深い哀しみと折り合いをつけていく様子も描かれ、味わい深い、重層的なドラマに仕上がっている。ロジャー・ミッシェル監督の遺作は、優しく温かい多幸感が心の奥に広がる、良作であった。
 

trailer:

【映画】オペレーション・ミンスミート ―ナチを欺いた死体―

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映画日誌’22-09:オペレーション・ミンスミート ―ナチを欺いた死体―
 

introduction:

女神の見えざる手』『恋におちたシェイクスピア』などのジョン・マッデン監督が、第二次世界大戦下で実行された英国諜報部(MI5)の奇想天外な欺瞞作戦を描いたサスペンス。『英国王のスピーチ』のコリン・ファースが主演し、『プライドと偏見』などのマシュー・マクファディン、『ハリー・ポッター』シリーズのジェイソン・アイザックス、『トレインスポッティング』などのケリー・マクドナルドらが共演する。(2021年 アメリカ)
 

story:

第二次世界大戦下の1943年。劣勢のイギリス軍は、ナチス掃滅に不可欠なイタリア・シチリア攻略を進めるが、シチリア沿岸はドイツ軍による固い防御が敷かれていた。そこで英国諜報部(MI5)のモンタギュー少佐たちは驚くべき奇策をチャーチル首相に提案する。“オペレーション・ミンスミート”と名付けられたその欺瞞作戦は、高級将校に見せかけた死体に「イギリス軍がギリシャ上陸を計画している」という偽造文書を持たせて地中海に流し、ヒトラーを騙すというものだった。それはヨーロッパ各国の二重三重スパイを巻き込み、熾烈な情報戦へと発展していくが...
 

review:

ミンスミート作戦」は、第二次世界大戦中の1943年にイギリス軍が実行し成功を収めた諜報作戦である。連合国軍側の戦争計画に関する「極秘書類」を持った「マーティン少佐の死体」をスペイン沿岸に漂着させ、ドイツ側にその極秘情報を「偶然」入手させる。実際の計画地がシチリアであることを秘匿しつつ、連合国軍がギリシャサルデーニャ侵攻を計画しているとナチス・ドイツの上層部に信じ込ませようとしたのだ。
 
この奇想天外な欺瞞作戦は、表向きは弁護士の諜報員ユーエン・モンタギュー少佐、チャールズ・チャムリー空軍大尉、イアン・フレミング少佐によってチャーチル首相に提案された。1953年に出版されたユーエン・モンタギュー少佐による書籍『 The Man Who Never Was(存在しなかった男)』によって、その作戦の大部分が明らかにされているが、本作はベン・マッキンタイアー『ナチを欺いた死体 英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』を原作としている。
 
「マーティン少佐」の「死体」を手に入れ、その「身上」を綿密に作り込む過程がテンポよく描かれ、作戦実行後に二重、三重のスパイが騙し合い駆け引きし、スリリングな展開を見せる。007シリーズを観ているかのような気分になるのも当然と言えば当然、「偽造文書を持たせた死体を海に流す」という奇策を考え出したイアン・フレミング少佐は、後の007シリーズの原作者なのである。本作に登場するイギリス海軍提督ジョン・ゴドフリーは、007シリーズに登場する「M」のモデルとして知られているそうだ。
 
まさに「事実は小説よりも奇なり」であるが、なぜか中途半端な恋模様が織り込まれており、そのせいで筋がボヤけてしまっている。モンタギューと妻アイリス、弟アイヴァー、チャムリー、ジーン・レスリーの人間関係が何故だかイマイチわかりづらい。何なら弟もメガネでチャムリーもメガネだから最初どっちがどっちか分からないし、それ以外の皆さんも役割がよく分からない。余計な恋模様より登場人物をきちんと描いてくれだし、もっと言えば世界史の基礎知識が必要すぎる。その点が少々残念ではあったが、史実として興味深い映画体験ではあったと思う。
 

trailer:

【映画】ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ

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映画日誌’22-08:ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイ
 

introduction:

1959年に44歳の若さで死去したアメリカジャズ界の伝説的歌手ビリー・ホリデイを描いた伝記ドラマ。人種差別を告発する「奇妙な果実」を歌い続けたことでFBIに追われていた彼女の半生を映し出す。監督は『大統領の執事の涙』のリー・ダニエルズR&Bシンガーのアンドラ・デイがホリデイ役を演じ、第78回ゴールデングローブ賞で最優秀主演女優賞受賞、第93回アカデミー主演女優賞にノミネートされた。『ムーンライト』などのトレヴァンテ・ローズ、『トロン:レガシー』などのギャレット・ヘドランドらが出演する。(2021年 アメリカ)
 

story:

1940年代、公民権運動黎明期のアメリカ。国民の反乱の芽を潰すよう命じられていたFBIは、当時絶大な人気を誇っていた黒人ジャズシンガー、ビリー・ホリデイが歌う「奇妙な果実」が人々を扇動すると危険視し、彼女に対して歌うことをやめるよう圧力をかけていた。それでも決して歌うことを諦めないビリーに対し、FBIは彼女を逮捕するため、おとりとして黒人捜査官のジミー・フレッチャーを送り込むが...
 

review:

ビリー・ホリデイは、サラ・ヴォーンエラ・フィッツジェラルドらと並び称されるアメリカのジャズ・シンガーである。壮絶な生い立ち、人種差別や性差別、薬物やアルコール依存と闘い、短くも波乱に満ちた生涯を送った彼女の存在は、ジャニス・ジョプリンをはじめとする多くのミュージシャンに影響を与えた。ホリデイの死から約40年後の2000年にはロックの殿堂入りを果たし、2003年には「Qの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第12位に選出された。20世紀で最も偉大な歌手の一人である。
 
ジャズ・ボーカルの古典となったホリデイの代表曲「奇妙な果実 (Strange Fruit)」、ルイス・アレンという若い高校教師が作詞・作曲したこのナンバーは、アメリカ南部の人種差別の凄惨さを歌う。「南部の木は奇妙な実をつける」と始まり、白人からのリンチによって木に吊りさげられた黒人の死体が腐敗し、死臭を放ちながら風に揺られているさまを描写する。人種を問わず同席できる、当時のアメリカでは革新的だったナイトクラブ「カフェ・ソサエティ」で、ホリデイはこの曲を歌い続けた。
 
そのことによって彼女は、黒人社会に与える影響力を恐れたFBIから標的にされていた、ということが最近明らかになった。イギリス人作家ヨハン・ハリが2015年に発表したノンフィクション「麻薬と人間 100年の物語」のビリー・ホリデイの章で、麻薬取締局(DEA)の前身であるアメリカ合衆国財務省管轄の連邦麻薬局を率いたハリー・J・アンスリンガーが、「奇妙な果実」を歌わないようホリデイを脅し、彼女のドラッグの問題を利用して追い詰めたことを明かしたのである。
 
このエピソードに焦点をあて、ホリデイの生涯に迫る興味深い内容だったが、ちょっと散漫な印象。タイトルほど国家権力と闘うわけでもないし、メッセージが曖昧で何を伝えたいのか分からなかった。彼女を取り囲む人間関係も描写が中途半端で、生涯を通して真の友であったと言われるサックス奏者のレスター・ヤングですら印象が薄い。連邦検事が「考えうる限りで最悪のヒモ男」と描写した最初の夫ジミー・モンロー、彼女を食いものにしたペテン師ジョン・レヴィーとの関係もぼんやり描かれるし、最後の夫ルイ・マッケイに至ってはお前どこからわいてきた感すごい。
 
しかし本作を通して、ビリー・ホリデイ公民権運動の火付け役だったのだと、改めて知ることができた。ニーナ・シモンアレサ・フランクリンよりも前に、ビリー・ホリデイの存在があったのだ。そういう意味では充分に観る価値のある作品であったし、アンドラ・デイのパフォーマンスも素晴らしかった。今改めて、ビリー・ホリデイが歌う「奇妙な果実 (Strange Fruit)」をじっくりと聴いてみようと思う。
 

trailer: