銀幕の愉楽

劇場で観た映画のことを中心に、適当に無責任に書いています。

【映画】沈黙 -サイレンス-

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劇場で観た映画を適当に紹介するシリーズ’17-4
『沈黙 -サイレンス-』(2016年 アメリカ,イタリア,メキシコ)

うんちく

戦後日本文学の金字塔にして、世界20カ国以上で翻訳され、いまも読み継がれる遠藤周作の「沈黙」。1988年、大司教のポール・ムーアより手渡されたこの小説に大きな衝撃を受けた巨匠マーティン・スコセッシが、いくつもの困難を乗り越え、28年もの時を経てついに映画化を果たした。主演を務めたのは『わたしを離さないで』『アメイジングスパイダーマン』のアンドリュー・ガーフィールド。ほか、『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』のアダム・ドライバー、『シンドラーのリスト』のリーアム・ニーソン、日本からは窪塚洋介浅野忠信イッセー尾形塚本晋也小松菜奈加瀬亮笈田ヨシらが名を連ねる。

あらすじ

17世紀、江戸初期。幕府によるキリシタン弾圧が激しさを増していた長崎で高名な宣教師フェレイラが棄教したとの知らせを受け、弟子のロドリゴとガルペは日本人キチジローの手引きでマカオから日本に潜入する。無事に長崎に入った二人は弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と出会い、ひっそりと信仰を守り続けてきた彼らに秘蹟を授けて寄り添うが...

かんそう

時代考証や美術で日本人チームが参加し、舞台となる江戸初期の長崎を再現した、と言うだけあって、なるほど全く違和感なく「日本」「長崎」そして「日本人」が描かれていて見事。原作の力強さ、俳優陣の素晴らしい演技に裏打ちされ、大変見応えあるスコセッシ作品であった。さて、キリスト教に馴染みのない多くの日本人は、この映画をどう観たのだろう。棄教したロドリゴの姿が、どう映っているのだろう、と。仏教と違い、キリスト教には輪廻の概念がない。死は神のもとへ帰るその入り口であり、「生まれながらに罪人」である人間はその罪を赦され天国に入るため、十字架を背負うことで人類の罪を贖ったイエスとその復活を信じて「徳」に生きるのである。キリスト者が凄惨な拷問に屈しないことを不思議に思うかもしれないが、彼らにとっては地獄のような「今世」より「神の国」で魂を祝福され無上の喜びを永遠に享受することのほうがずっと大切なことなのだ。神を信じることは同時に、その存在を「畏れる」こと。隣人を理解し、フェレイラらが棄教した「重さ」を知ってすれば、よりこの作品の本質に近付き、その深淵を覗き見ることが出来るのではないだろうか。それは弱さだったのか。信じることとは何か、神は沈黙していたのか。暫くのあいだ、私も問い掛け続けている。